金印とは

現在、金印(古印)と呼ばれるものは、『漢委奴国王印』(かんのわのなのこくおういん)と刻印されたものと、卑弥呼に贈られたとの記述が残る『親魏倭王印』(しんぎわおういん)の2種類があるといわれています。
『親魏倭王印』の発見も古代ロマンを駆り立て、楽しみなところですが、このサイトで紹介する『金印』とは『漢委奴国王印』をさします。

金印(漢委奴国王印)歴史のあらまし

歴史は今から約2000年も前にさかのぼります。
西暦57年、日本がまだ弥生時代と呼ばれていた頃、現在の福岡県春日市にあったとされる奴国(なこく)王」の使節団が大陸の超大国『漢』に向かって出航しました。

おそらく当時の技術を駆使して建造されたと思われる数隻の船団を率い、果敢な大志を抱いての長旅であったことでしょう。なかには荒浪や突風などのアクシデントや不慮の事故で命を落とす者も少なくなかったのではないでしょうか。

現在では考えられないほどの困難を克服して大陸に渡り、時の中国皇帝『光武帝』に拝謁した奴国王とは、どのような人物だったのでしょう。手のひらに乗る金印に広大な宇宙のようなロマンが秘められている、そんなドラマが想像できます。


弥生時代の日本より、はるかに進んだ文明大国『漢』。
未知の文明に対する憧れが、困難を克服させたのでしょうか。長く遠い道のり。最高権力者である皇帝に謁見できるまでにもさまざまなドラマがあったことでしょう。命の危険と常に背中合わせの冒険です。

やがてたどり着いた謁見の間で、光武帝から授かった『金印』。漢(古代中国)の歴史書『後漢書』という書物には、しっかりと記録されていました。
命がけで持ち帰った金印は奴国王ばかりか、当時のすべての人の心を照らし、尊敬と崇拝の対象になったのではないでしょうか。


時は移り、天明4年(1784)2月23日、筑前国那珂郡志賀島村(福岡県福岡市東区志賀島)南端・叶ノ浜の「叶崎」で百姓・甚兵衛が金印を発見(と伝えられています)。
なぜ奴国から遠く離れたこの場所から見つかったのでしょうか。
今なお、歴史学者やマニアの間で論争を展開するまさに歴史ミステリー。果たして、その真相はいかに。
現在その地は金印公園として多くの観光客が立ち寄る福岡の名所のひとつとなっています。


最初に金印の謎を解いたのは、博学で知られた博多の儒学者・亀井南冥。太宰府に保管されていた『後漢書』の写しを読んだことがあった亀井南冥は、漢より贈られた『金印』であると看破したのです。
その後、福岡藩主黒田家で大切に保存され、1931年(昭和6年)12月14日、国宝に指定されました。


時はさらに流れ、1978年(昭和53年)福岡市美術館の開設に際して、国宝金印は黒田家から福岡市に寄贈されました。
1979年(昭和54年)から福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されています。

是非、実物をじっくりとご覧ください。大いなる歴史と人類の未知への勇気を教えてくれる光は今なお輝きを放ち、私たちをとらえて離さない力を秘めています。

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)基本データ