耐震構造の権威、多田英之工学博士の卒寿を祝う会(耐震工学研究会、西日本新聞社、金印倶楽部主催)が、このほど福岡市博多区のホテルで開催された。第1部は対談「耐震設計のこれから」、第2部は祝賀パーティーで、研究者や建築学会など約140人が参加した。第1部で多田氏は設計者としてのプライドや徹底的に追究することの大切さなどを語った。また、卒寿を迎えた健康の秘けつを披露し、会場には笑い声で包まれた。当日の対談などを紹介する。
(西日本新聞掲載文よりの引用)
多田英之(ただ ひでゆき)
1950年、東京大学工学部建築学科卒業。51年、(株)日建設計に入社。業務室長、設計部長、技師長を経て76年、福岡大学工学部建築学科教授に就任。79年から免震構造の開発に専念。退官後の95年、(株)日本免震研究センター設立し代表を務める。一貫して構造設計を専門とし、建築構造物の実大実権を数多く実施。代表作品に神戸銀行東京支店、神戸ポートタワー、新居浜西火力発電所、PL大平和記念塔など。2005年、日本建築学会大賞を受賞。
秋山宏(あきやま ひろし)
1962年、東京大学工学部建築学科卒業、68年講師、70年助教授を経て91年に同大教授に就任。99年退官後に日本大学教授に就任。2003年、建築学会会長。専門は建築構造。特に鉄骨構造の地震時挙動に関する研究で知られる。地震入力エネルギーに基づく耐震構造設計理論は既往の設計法に変わって建築物の耐震性能を明確化できる次世代設計理論として構造建築に関わる設計者や実務者から注目されている。また地球環境問題にも造詣が深い。今年日本建築学会大賞受賞。
和田章(わだ あきら)
1968年、東京工業大学理工学部建築学科卒業。70年、同大大学院修了後、(株)日建設計に勤務。構造設計・構造解析に携わる。79年、日本工業大学非常勤講師。81年、東京工業大学助教授、89年、教授に就任。91年、アメリカ・マサチューセッツ工科大学客員教授に就任。96年、東京工業大学教授建築物理研究センター長。2011年、東京工業大学名誉教授、日本建築学会会長に就任。専門は建築構造学、耐震工学、構造設計、免震構造、制震構造、空間構造など幅広い。
地震で地盤が揺れるとビルなどの重い建物は揺れ、それが原因で地盤を揺すり返す。この建物と地盤と地震の振動エネルギーのやり取りが分からない。ここが問題になると思っていた。建物と地盤を断ち切ることを考えればいいのではないか。それが基本だった。福岡大学教授時代に現実的免震バネがフランスで開発されたという新聞記事を読んだ。「やられた」と思って渡仏して実物を見た。しかし、フランスの地震に効果があっても、日本では対応できない。そこで日本用に積層ゴムを開発した。ゴムと鉄板の二つを一定の枠内に入れると"もれない水状態"になり、その上に建物を乗せる。
積層ゴムがどのくらい耐えられるのか、三菱重工業長崎造船所で8000トンの試験機を借りて実験したが、破損しなかった。まさしくもれない水という事が分かった。物体は完全に元に戻る弾性と、ある一定を過ぎると戻らなくなる塑性の動きがあるが、建物は地震を受けたら弾塑性の動きをする。それを弾性の領域に戻すのが免震だ。つまり、免震構造で家を建てることは、地震がない場所に建てる事と同じになる。
1950年あたりから震度法自体が大揺れになった。コンピュータが進歩したので学会を上げて解析し、強度だけではなく、塑性変形も考えるようになった結果、81年に新耐震設計法がスタートした。ところがコンピュータが正しいかどうか、というとそうではない。もう少し解析方法はないのかという中で免震構造が世界的に認識され始めた。その中で、多田先生は世界のリーダーとなられ、80年代に免震構造小委員会が学会内にスタートした。それ以来、多田先生からは本当の事を教えていただいている。
免震構造が発達し、しかも方法論としてもまさに新耐震設計の中でも花形であり、リアリティーを持った設計法になっていると思う。しかし、私は最初、免震構造は分かっていなかったという気がする。
多田先生は決然として塑性変形も含めた新耐震設計が根本的に欠陥であり、そこに本質的に問われることがあると一貫して主張されてきた。今は免震構造が当たり前になっているが、たどるまでの道のりはいかに急峻であったか。多田先生は免震構造を通じて、科学とテクノロジーに人間がどう関わるべきかという新しい道を開いてくれた。
多田英之先生の卒寿を祝う
日本の免震技術はここから始まった